伊那谷ふぃーる

人々の記憶

ふるさとの記憶の記録 #1 -長谷-【後編】

長野県伊那谷の伊那市、南アルプスの麓にある小さな村「長谷」。ここで生まれ、暮らし、60年を過ごしてきた久保田文子さんは、表現活動としてふるさとを題材にした紙芝居も続けてきた。久保田さんの視点で綴るふるさとの記憶の記録。

仙丈ケ岳に抱かれる暮らし
長谷は、市内から車で20〜30分ほど離れた場所にあるので、時々、不便を心配される。道路が整備された今は、不便と思ったことはない。むしろ歳を重ねるごとに「長谷に住んでいてよかった」と、日々思う。山も川も、私にとって大切な生活の一部。
 


 

特に好きなのは、遠くに眺める仙丈ケ岳。南アルプスの女王と呼ばれるに相応しく、なだらかに広がる稜線は、女王のドレスのように広がっている。雄大な仙丈ケ岳を目にするたびに、「私はあの美しい仙丈ケ岳に抱かれて、平和に暮らしているんだ」と感じ、感謝という二文字が浮かんでくる。
 


 

ある時、私は父のケガでドクターヘリに乗ることになった。マツタケ山から転落した父は山から救急車で運ばれ、黒河内のダムグラウンドからドクターヘリで病院へ。同乗した私は、まっすぐに上昇したヘリの中で、仙丈ケ岳を目前にする。その仙丈ケ岳はいままで見たこともないほど、美しくそびえたっていた。
 

仙丈ケ岳と目が合う。「お父さんは 大丈夫だからね 安心して 行ってらっしゃい」私には仙丈ケ岳がそう言って、見送ってくれているように感じた。
 

父は、かすり傷はしたものの大したこともなく、その日のうちに帰宅。あの時見た、やさいしい仙丈ケ岳の姿は、今でもしっかりと目に焼き付いて、忘れたことはない。
 

仙丈ヶ岳から続く豊かな流れ
毎日見ている山並や三峰川、当たり前の景色はその時々により、いろんな思いを抱かせる。「今日は水がきれい」「あのゆっくり流れているところ、メダカがいそうだな…」たくさんの魚と戯れた幼い日、子どもと一緒に楽しんだ川遊び、遠い昔がよみがえる三峰川の流れ。
 

清き流れを作り出す三峰川は、仙丈ケ岳を源とし、南アルプスの北側に降った雨を集め、延長60キロを流れて天竜川へ合流する。その流れは、深い山間を南下し、途中180度向きを変えて、北へと進む。高遠まで来た三峰川は、ようやく西へと向かい、天竜川へ流れ込む。その壮大な不思議な流れに驚く。「仙丈ケ岳を頭にしたら、三峰川は竜そのものだ」と里の人はいう。
 


 

今年の夏は、三峰川に子供たちと出かけると決めた。ここ数年続く豪雨災害は、三峰川も例外ではなく、今まで知っている河原の様子とずいぶん違っていた。国道から見ているだけではわからない、川の姿がそこにあった。実際に河原を歩くと、その変わりように驚く。
 

上流から流れ着いた、大きな流木が幾重にも重なって、オブジェのように横たわる。物凄い流れだったのだろう。台地にしっかりと根を張っていた大木は根ごと流され、そのたくさんの根の中に三峰川の石を抱き込んでいた。
 

土砂や石ころで川床が高くなった三峰川の姿。数年前はあった柳やアカシアの木や小さな魚がいた支流も、河原に見当たらない。
 



 

「大丈夫?」心のなかで、三峰川へと問いかける。「大丈夫、長い歳月の中、いろんなことが起こるのよ、豊かな山がある限り流れ続けるわ」「あなたも、前を向いて、ゆっくりゆっくり歩んでね」。西の対岸を流れる三峰川の流れる音を心地よく聞きながら、体中に不思議な力が入ってくるのを感じる。
 

 
 

日々、こうやって雄大な山や川から力をいただいて生きていると実感している。長谷の自然からたくさんの恵みを受けている。この場所に暮らす幸せを改めて感じる。今、大きな声で 感謝を伝えたい。南アルプスの山々、豊かな水を運ぶ三峰川、先人が作りあげてきた伝統文化、この長谷の里のすべてに「ありがとう!」
 


text&photo 久保田文子
1984年、紙芝居グループ「糸ぐるま」結成。まんが日本昔ばなし「孝行猿」「戸倉の大鷲」の製作に協力。1993年、長野県青少年育成県民会議主催のひまわりっ子カーニバル紙芝居コンクール優良賞受賞。公民館活動や社会福祉協議会、保育園、小中学校、高校など、年20回ほどの紙芝居・切り絵指導・語り講師などの公演を行う。

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